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浅草 浅間神社(お富士さん)

浅間神社は富士山信仰にもとづく神社で、江戸時代は、富士講信者の活動拠点となる。浅草の浅間神社は、江戸初期の寛文11年(1671)までに当地に勧請されており、現在に至るまで、浅草や蔵前付近の人々の信仰を集めた。

浅間神社には、192点に及ぶ資料群が現存し、建築物・礼拝対象物・祭祀用具等に分類。
建築物のうち、本殿は土蔵造りで、明治11年の造営(平成9・10年の改修工事で外観のみ新たに漆喰塗をほどこしています)。土蔵造りの神社は、江戸から明治時代には江戸・東京の各地にあったようだが、現在ではほとんど見ることができない。

礼拝対象物では、江戸初期制作の木花咲耶姫命坐像(このはなさくやひめのみことざぞう)、慶応3年(1867)銘の銅造猿倚像(どうぞうさるいぞう)、江戸末期と思われる五行御身抜(ごぎょうおみぬき(富士講の本尊))など、江戸時代のものが現存。さらに、祭祀用具では、富士山頂の様子を描いた安政5年(1858)銘・富士山絶頂図、明治時代奉納の鏡・鏡台や、富士講の幟旗であるマネキ等がある。

また、境内地は盛土となっているが、江戸初期までの浅間神社は、こうした盛土上に勧請する場合が多かったようで、江戸初期以前に勧請された浅間神社の景観をよく伝えている。

明治6年の神仏離反に伴い、浅草神社の兼務社に。

浅草 浅間神社

東京都台東区浅草5-3-2

合力稲荷神社

山谷村のお百姓たちが、生活の基である食に困らぬように祀った稲荷神社で、永禄年間(1558-1569)に創建された。

祭神は保食命。
保食命とは、陸を向いて口から米を吐いたり、海を向いて魚を吐いたり、山を向いて獣を吐いて神々をもてなしていたが、ある時天照の弟の月夜見尊をもてなした際に、「吐き出した物を食べさせるとは汚らわしい」と斬られて死んでしまう。
その屍の頭からは牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部からから麦・大豆・小豆が生まれたとされる神で、豊作を願う神として祀られた。

合力稲荷神社

東京都台東区浅草6-42-8

袖摺稲荷神社

はじめは源頼朝卿が伊豆にて、米に乏しくならぬようにと稲荷の神体を彫刻し、豆州北条にを建立したことに始まるとされる。その後数々の御神徳を導き、北条家の拠点小田原城に遷座し、小田原落城後に小西半右衛門が隅田へ奉遷、德川家綱が当地へ遷座したという。

この地が、衣類の衽(おくび)に似ていた事から、衽稲荷と社号を改め、多くの崇敬を集めたことから、参拝者は後を絶たず、神籬にそですり通うことから「袖寿里稲荷」が神号となり、現在に至った。
岡本綺堂の「半七捕物帳」の広重と川獺の中にも登場する神社。

祭神は宇迦之御魂神(倉稲魂命)と素戔嗚尊。

袖摺稲荷神社

東京都台東区浅草5-48-9

今戸神社

今戸神社は、康平6年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の石清水八幡宮を当地に勧進し、祈願したのが始まりであるといわれている。
また永保元年(1081年)にも清原武衡・家衡討伐の際に当地を通り、戦勝祈願をしたという謂れも。
大正12年(1923年)9月1日の関東大震災や太平洋戦争の際、米軍の爆撃機B-29が下町に焼夷弾を投下したり(東京大空襲)など数々の戦乱や火災に見舞われたが、その都度再建され、現在の社殿は1971年(昭和46年)に再建されたものである。
1937年(昭和12年)には隣接していた白山神社を合祀し、今戸八幡と呼ばれていた当神社が現在の今戸神社と呼ばれるようになった。最近では縁結びの神社として名が高く、ほぼ毎月縁結び会も行われ、多くの方が良縁を授かっている。

祭神は応神天皇・伊弉諾尊・伊弉冉尊・福禄寿。

今戸神社

東京都台東区今戸1-5-22

待乳山聖天

待乳山聖天(まつちやましょうでん)は、聖観音宗の寺院で、浅草寺の子院のひとつで、本龍院という。本尊は歓喜天(聖天)・十一面観音で、浅草名所七福神のうち毘沙門天が祀られている。聖観音宗とは、元は天台宗に属していたが第二次世界大戦後独立し、浅草寺を総本山する宗派。

待乳山聖天は隅田川べりの小高い丘(待乳山)にあるが、この丘は595年(推古天皇3年)9月に出現して龍が守護したと伝えられ、浅草寺の山号(金龍山)の由来となったと伝えられる。601年(推古天皇9年)この地方が旱魃に見舞われたとき、歓喜天と十一面観音が安置されたと伝えられる。待乳山は、かつては周囲が見渡せる山であり、江戸時代には文人墨客がこの地を訪れている。

例年1月に行われる「大根まつり」でも知られる。

待乳山聖天

東京都台東区浅草7-4-1

宮戸座跡之碑

宮戸座は、明治21年(1887)に千束で吾妻座として初開場。
明治29年(1896)9月に宮戸座に改称。座名は隅田川の古稱”宮戸川”にちなんで付けられた。関東大震災で焼失後、昭和3年(1928)11月この地に再建。
山川金太郎が座主になってから、経営は順調に。また、新派の俳優で興行したこともあり、ほとんどの俳優が宮戸座の舞台を踏んだと言われるほど、多くの俳優がここから巣立って行った。
そんなことから、別名出世小屋とも言われていたという。

昭和12年(1937)2月に映画,軽演劇,レビューなどに押され廃座となった。

宮戸座跡之碑

東京都台東区浅草3-22-5

旧浅草象潟町

象潟(きさかた)という町名は、この地に屋敷を持っていた華族、六郷政鑑の領地の一地名からつけたと言われている。
六郷政鑑は幕末から明治初年にかけて、羽後本莊で二万余石を領した藩主であり、現秋田県にかほ市の地名であり景勝地であった。現在もその地に象潟町という町名が存在している。
浅草象潟町会は、明治5年(1872年)、景勝地の名を取って、この地に誕生。
昭和9年(1934)浅草象潟町会の他に浅草象潟一・二・三丁目が誕生し、浅草象潟町会の東側大部分が浅草象潟二丁目となり、その町域を狭めた。浅草象潟一丁目は浅草千束町二丁目東側一部に起立し、浅草象潟三丁目は、浅草千束町三丁目の一部と浅草田町一丁目西部を合わせて誕生。
昭和41年(1966)の住居表示で浅草三丁目から五丁目に分割編入となり、現在に至る。

松尾芭蕉 象潟の句碑

旧浅草猿若町

浅草に江戸三座が有った頃の猿若町が存在した事を示す碑。
猿若町が形成されるにあたっては、天保12年(1841)日本橋にあった中村座が失火にて全焼。通りを面して目と鼻の先にあった市村座も類焼して全焼。浄瑠璃の薩摩座と人形劇の結城座も被災。

折しも幕府では店舗の改革が推進されており、芝居小屋の再建を禁じた。同時に幕府は浅草聖天町の丹波園部藩の下屋敷を没収しており、その地に引き移ることを命じる。

聖天町のこの地は芝居小屋の草分でもある猿若勘三郎の名に因んで、猿若町と改名。天保13年9月、中村座と市村座が早々にこけら落としを行った。更に同年冬に河原崎座(のちの守田座)も移転を命じられ、当時の老中水野忠邦は城下から悪所を一掃した。

しかしながら、江戸三座が揃ったことで、役者や芝居関係者もこの近辺に移り住み、一代芝居町が形成されていく。役者も芝居小屋が隣接してるために、貸し借りが楽になり、演目も充実。幕府の目論見とは裏腹に、歌舞伎はかつてない盛況を見せた。

倒幕した後の明治政府は慶応4年9月末に突然猿若三座に対して移転を命じ、守田座が新富町(現在の新富2丁目)に、中村座が西鳥越町に(現在の鳥越)、市村座が下谷ニ長町(現在の台東1丁目)に移転し、猿若町の芝居町の歴史は幕を閉じる事となる。

ここには現在、猿若町の碑と市村座跡の碑が残っている。
(守田座跡の碑も有ったが、現在撤去されている)

浅草猿若町碑

山谷堀

山谷堀は大川(隅田川)の氾濫を防ぐために、三ノ輪から今戸に作られた水路であったが、いつ作られたのかは未だ解明されていない。
江戸時代には、新吉原への水上路として、隅田川から吉原大門近くまで猪牙舟が遊客を乗せて行き来したが、吉原の衰退と共に、昭和の初期に埋め立てられた。

また山谷堀には今戸橋・聖天橋・吉野橋・正法寺橋・山谷堀橋・紙洗橋・地方新橋・地方橋・日本堤橋の九つの橋が存在した。
紙洗橋には多くの紙漉き職人がおり浅草紙という再生紙を作っており、その紙屑を堀の流れにさらして置く工程を「冷かす」と云うのだが、その時間に吉原の軒先を登楼する気もないのに見物して居たため、後に登楼する気もないのに見物する客を、冷やかしと呼ぶようになり、買う気もないのに見物だけすることもその言葉が当てはめられる様になった。

地方新橋・地方橋はその名の通り、地方さん(鳴り物をする芸者)が多く住んでいた為に付けられた。

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旧新吉原

江戸幕府が開幕して間もない1617年に、今の日本橋人形町辺りに、幕府公認の遊郭が庄司甚内によって作られるも、明暦の大火で浅草のこの地に移転した。
吉原の周囲は、およそ5間(約9メートル)のお歯黒ドブで囲われ、入るは大門のみという陸の孤島の様な場所であった。吉原は遊郭としてのしきたりなども多く、単なる女郎屋ではない側面も持つ。
また吉原の遊女は、浮世絵や黄表紙、洒落本などの題材にも多くなり、江戸の文学やファッションにまで庶民に影響を与え、文化の発信地としての役割も担っていた。
遊女の格も太夫、太夫格子、散茶、梅茶、五寸局、三寸局、並局とあり、格によってその値段も変わっていた。
東京大空襲で最終的に遊郭の頃の吉原の風情は全て無くなり、昭和33年の公娼制度の廃止により、遊郭としての吉原の歴史は幕を閉じる。

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